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カウンタ

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2022/12/10

映画【ラーゲリより愛を込めて】に、今、日本人が学ぶこと!

| by:ts
 2022年12月9日、映画【ラーゲリより愛を込めて】(監督瀬々敬久氏)を観た。二宮和也さんが扮するこの映画の主人公、山本幡男(島根県隠岐の島さんは、旧満州国で満鉄調査部に勤務していた。たまたま知人の結婚式場で、妻モジミさんや子どもたちと食事をしながら団欒しているシーンから物語は始まった。そのころ、日本国内では広島と長崎に原子爆弾が投下され、日本の敗戦色が濃くなっていた。その期に及んで連合国でもある旧ソ連は、一方的に日ソ中立条約を破棄し、満州へ攻め込んできたのである。家族を日本へ逃避させた山本さんら約70万人の日本人はソ連軍によってシベリアに連行され、零下40度という極寒の収容所(ラーゲリ)に抑留され、寒さと飢えに耐えながら強制労働を強いられた。
 生きる望みを失っている収容所の仲間たちに、俳句や万葉集なども教えながらダモイ(帰国)するまで「生きる希望」を与え続けた指導者が山本幡男さんであった。映画はそのような収容所での過酷な労働内容や仲間たちの葛藤を映し出す。映画の中盤から目が離せなくなる。癌に侵された山本さんは余命3か月と告知される。日々衰弱していく山本さんに、仲間たちは「家族に遺書を書け」と薄いざら紙のノートを差し出す。
 自らの命の限界を感じている山本さんはそれを受け止め、家族あてにノート15頁、約4千500字の遺書を書いた。遺書は「本文」「お母さま!」「妻よ!」「子供等へ」の4通になった。遺書を書きあげた山本さんは間もなく息を引き取り、遺体は収容所近くの白樺林に葬られる。
 この山本さんの遺書、仲間たちがダモイ(帰国)したときに、家族に届ける約束となったが、収容所から紙に書いたものを持ち出すのはスパイ行為になってさらに25年の抑留になる。そこで一計案じたのが、みんなで分担して暗記をすることだった。7人の仲間が山本さんの遺書を暗記することにした。
 それから歳月が過ぎ、1955年4月18日、記憶で運ばれた最初の遺書が妻のモジミさんに伝えられた。10日後に第二便の遺書が届けられ、第三便、第四便、第五便、と続き、最後の遺書が届いたのは1986年のことになる。母へ、妻へ、子供等へ、へ宛てたそれぞれの遺書の内容は、今の時代の危うくなっている家族関係に大きな示唆を与えるものだ。特にこれからの日本を背負うことになる子供たちへのメッセージ(教訓)はこの国の人間精神の忘れてきたものへの警鐘にもなりえるものではないかと思う。
 山本幡男さんに扮した二宮和也さん。嵐のメンバーとしての印象が強いのであるが、まず、二宮さんのイメージを全く感じさせない表情・演技力に驚かされ、感動した。山本さんの性格・人格もすべて二宮さんに同化して、山本幡生男さんそのものになっている。すばらしい俳優さんであることを再認識させられた映画でもある。この映画、原作者の辺見じゅんさん(2011年9月21日没)に観てほしかった。生前、『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』の映画化の話があると伺っていた。当時私は編集者をしていて、「朝の読書」や「家読」運動に携わっていて、これらの子どもの読書運動に辺見さんは大きな関心を寄せれら、また運動の支援者でもあった。そこで、この『収容所から来た遺書』を、「朝の読書」に取り組んでいる子どもたち(主にYA世代)にも読んでもらいたい。そのために小学高学年から中高校生、さらに大人まで読める本をつくりませんか、と相談。辺見さんは大変喜ばれてその話から3年目に『ダモイ遥かに』(メディアパル)を出版することになった。辺見さんは1989年に出版した今回の映画の原作本になる『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』刊行後に確認された事実も書き加え、新たな小説として2008年4月に『ダモイ遥かに』を社会へ送り出すことになった。この『ダモイ遥かに』を出版することになった辺見さんは、「極限下でも希望を失わずに生き抜いた日本人の姿を、今の中学生や高校生の子どもたちに伝えたい」と語られていた。
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